2つのよろこび

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本日のインナーチャイルドオンラインコースの上級は、「中毒性の恥」(=Shame)についての学びだった。

この言葉は、イントロ、初級、中級と、ずっと出てくる言葉なのだけど、章として学ぶのは上級に入ってから。

それくらい、このことを理解するためには一通り自我についての理解が必要で、その理解の軸に沿って、Shameを改めて覗き込んでみる、、、というのが、上級で学ぶ章の構成になっている。

ところで、この中毒性の恥は、中毒的行為と振り子関係にあるのだけれども、中毒的行為とは、何も法に反したり、体を壊したりするような重篤なものばかりではない。

実は、日常に、この中毒的行為がたくさん潜んでいることには気が付いておいた方がいい。

あらゆる行為、あらゆる瞬間に、意識的であれば、それが中毒的行為なのか、本当の自分の意志による行為なのかは一目瞭然だ。

その意味で、実は、よろこびや快楽という人を心地よくさせるものも、この2つ、つまり中毒的よろこびか本当の自分のよろこびかに分けられる。

前者を「つかの間のよろこび」で、後者「いまここのよろこび」として、書いてみたいと思う。

「つかの間のよろこび」とは、私たちの渇望感とイコールになっていて、人は、これをターゲットとして行動する。「これがなければ自分は不足している」と感じたり、またはこれがやってきた後に再び不足してしまうことへの不安を感じたりする。つまり「つかの間のよろこび」を狙って行動しているとき、その人の人生はShameにコンタミ(汚染)されていて、不足感から行動しているということになる。結果として、私たちは、不足感へと戻ってしまう。

「いまここのよろこび」というものは、ただ自然と湧いてくるものであり、これを感じられるとき、人はこれをターゲットとして行動はしない。「いまここのよろこび」は自然に満ちてきて、ただ、それを味わっている状態にある。だからそれがなくなるという不安もなければ、それを狙って行動することもない。「いまここのよろこび」は、あまりにも自然で、毎回微細に違うものであるし、そこに執着することもできない。海の波が一度たりとも同じように押し寄せてくることがないように、「いまここのよろこび」も、決して同じものはない。

スクリーンショット 2017-07-19 10.09.19さて、私たちは、どちらのよろこびを感じがちなのか。

「つかの間のよろこび」が悪いわけではなく、それすら、意識的に選択しているならば、ありのままの自分だと言えるのかもしれない。

その意志的なあり方の連続の先に、真実のよろこびとは、執着するものでも狙うものでもなくて、ただ、自然にやってくる「いまここのよろこび」なんだと、理解できるのかもしれない。

Pranava Life
川村イーシャ

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