「手に入れる」から「分かち合う」へ

ancient-1807518_1280そういえば、私は、自分が「働き者」であるという、一つの自我の状態を知っている。

これは私にとって良くも働いてきたし、悪くも働いてきたと思う。

良いというのは「都合が良い」、悪いというのは「都合が悪い」という意味で、どちらも、私の自我が満足するかしないかという、自我から見た良し悪しだ。

40年近くそれを生きてきて、ふと「我」にかえってみたら、そんなものはどうでも良いんだなという一つのあり方に立ち返った。

これが、いつまで続くかはわからない。

大体にして、私は、気をぬくと働いてしまうたちだ。

何かをしていないと、自分が無価値のようで、怖いんだろう。

何かを得ようとか、何かになろうとして、私たちはがむしゃらに働く。

だけど、実際にその何かを手に入れたり、何かになったとき、やっぱり、私たちは自分には満足していない。

切望や焦燥感は、私たちが、自我に操られている限り、在り続ける。

自我が使うどんな感情も、結局は恐れから発している。

恐れを観ないようにすることも、恐れでしかない。

だから、恐れを否定せず、その中に飛び込んでいくという反逆的な行為こそが、自我に光の穴を開け、自我の闇を照らすことができる。

自我は、唯一、観られることを避け、それによって存続しようとしているからだ。

闇を照らすという行為を支えてくれるのは、喜びだと言える。

インナーチャイルドワークでは、本物の4つの感情の中の一つに「喜び」があると伝えている。

ここでいう喜びとは、とても無邪気で純粋なもので、「〜だから幸せだ」という条件付けの自己承認とは違う。

喜びは、自己承認を求めないし、ただ、自分自身への祝福だと言える。

これこそが、私たちを自我から自分の本体へと、橋渡ししてくれる。

「喜びの方向へ」

これは、私の人生のスローガンだ。

喜びの匂いのする方に行けば必ず、何か大切なものが見つかる。

そう信じてきたし、これからもそうしていく。

私は、喜びに支えれて、恐れにダイブしながら、宝探しをしてきたんだと思う。

そして、今、私という広大な海に拡がっているのは、とても穏やかな、そのままでいよいという状態。

私の働き者の自我は、条件付けの幸せを必死に追い求め、うまく手に入れてきた。

結婚、子どもたち、家、仕事、愛されること、幸せ、おいしいもの、美しいもの・・・etc・・・

これ以上、手に入れるものがあるんだろうか?

もちろん、今も、この世界を生きる自我の私は、金銭的、時間的なリミットを抱えているわけなので、何もかもが叶えられたとは思っていない。

だけども、そんなことを私は本当に求めているのだろうか。

それらは、私を本当の意味で、喜ばせるだろうか。

自我は、むさぼり続ける。

だけども、いつまでたっても満腹にはならない。

飢えていることだけが、自我が存続する状態だから。

それをわかっていたい。

いつか、また、私が飢えだしたら、それは、自我が自分だと思い込んでいるときなんだから。

ハートに手を置いて、これまで何度か味わった喜びの状態を思い出してみる。

時間という幻想の中で、過去に位置するその記憶は、確かに日々のせわしなさで、色あせてくるけれど、今も確実に私のBEへの扉だ。

時間の幻想を超えた真実の場所では、それは、いつでも、私の中心にある。

そこから、真理の光が差し込んでいる。

その光は、私の内側の溢れる喜びと呼応している。

14479743_1123116337770603_4742713201172210666_n私は、今、自分が今まで手に入れてきたものを見渡している。

それらに手を合わせ、私はもう何も手に入れなくて良いとハートに誓う。

そして、エゴのおしゃべりから、伝達することへ、手に入れることから、分かち合うことへ、再び意識を合わなおす。

らぶ

イーシャ

〜もっとシンプルに、魂の望みに沿って生きたい人のための〜
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