それでよい

デバラジと❤️

デバラジと❤️

不定期発行のメルマガを、先ほど1通発行。

気づきは、時間が経つと、色褪せてしまうから、なるべくフレッシュなうちにお届けしたいと思っている。

メルマガを読んでくださった方には書いたことだけど、それは、私にとって、とても意味のある気づきだったので、ここにも別の表現を交えて書いておきたい。

ワークショップの最終日の朝のロッカールームで、私の胸に湧いてきた一つの感覚。

それは「かつて愛する人がいなくなったという喪失体験と、それに伴う悲しみや惨めさは、私の人生における一つの事実であり、それはそれでよい。」ということ。

「それがあったから今の私がある」という馴染みのある人生論や、「それが最善だった」というスピリチュアルな結論付けや、「あなたの痛みを抱きしめましょう」という懐の深いセラピーは、確かに何度か私を救ってきたかもしれない。

それらが、間違っていたとは思わない。

だけど、この数年、メンターから伝えられてきたある言葉を、私は、理解しないままに過ごしていたことを思い出した。

「それはそれでよい」

当時、自分の痛みについてグループ内でシェアするとき、何度かこの言葉を聞いたような記憶があるが、その度に、私は、異国の言葉を聞いているかのように、困惑した。

「その悲しい出来事は、そうであってよい。」

それを聞くたびに、そのときの私には意識的に受け止めきれない大切な理解が伝えられている気がしたが、私の内側では「そうであっていいわけない!」「それはあってはいけないことだった!」という声が沸き起こっていた。

また、その私の抵抗が、どんな風に私の人生を縛っているのかは、わからないままだった。

みんなと❤️

みんなと❤️

そして、今回、デバラジとその場にいたみんなとの時間で、何度も何度も、ハートに休む暇なく真実のボールが投げ込まれた。

私は、中心にいて、四方八方から投げられるそのボールを、必死で受けとり続けた。

真実の痛さに泣き、床に倒れ、ときには上手くそれを弾き返して、ときには目を見開いたまま、胸の奥で深く受け止めた。

そして、その朝、私に初めてその気づきがやってきた。

「あのときの喪失体験は、それでよい」

初めて、痛みを受け止めることのその先にたどり着いた気がした。

その痛かった事実は、そのままでよい。

それは、私の人生の一部であり、紛れもない事実である。

14479743_1123116337770603_4742713201172210666_nその痛みを上塗りして隠すことも、間違っていたことだと他の行為で穴埋めすることもなく、その事実を事実として認めること。

自分が深い場所で望んでいた完璧さに穴があいた瞬間だった。

その悲しかった出来事は、悲しい事実だった。

 

そして、それはそれでよいのだ。

イーシャ

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